イスラム教の東南アジアへの到達

イスラム教の東南アジアへの到達
イスラム教の教えは13世紀ごろから東南アジアに広まり始めました。イスラム教は唯一神アッラーを神とし、神は預言者ムハンマド(570-632年)を通じてメッセージを伝えました。イスラム教の基本的な教えはコーランに載っていて、ムハンマドを通したアッラーの意志表示はハディースと呼ばれるムハンマドの言行録にも載っています。イスラム教にはいくつかの特定の要求があります。それは「五行」として知られていてます。

1. 信仰告白「アッラーの他に神はなく、ムハンマドは彼の預言者である」
2. 1日5回(夜明け、昼、午後、日没後、宵)の礼拝
3. ラマダン月(太陰暦の9番目の月)の日の出から日没まで断食をする
4. 一生のうち最低1回はメッカ(サウジアラビア)への巡礼をする(ハッジ)
5. 収入の4分の1をアルムとして支払う(さらに寄付することも可)

イスラム教には司祭はいませんが、ウラマーと呼ばれる知識人がいて、過去の書物などのイスラム教の教えを訳したり、大多数のスンニ派の伝統である4つの学校で教えたりします。イスラム教全体の85%を占めるスンニ派のイスラム教徒は最初の4つのカリフのリーダ的存在であると認識されていて、どの宗教や政治団体にも帰しません。
預言者の死後も、イスラム教は拡大し続けました。8世紀から15世紀はその勢力の頂点で、北アフリカ、シチリア島、エジプト、シリア、トルコ、西アラブ、南スペインを含むイスラム帝国が存在しました。10世紀からはイスラム教は征服と転換によってインドにもたらされました。そして16世紀にムガル帝国が設立された時にその優位な政治的位置が認められたのです。
イスラム教が東南アジアにもたらされた正確な年代は分かっていません。少なくとも10世紀から、イスラム教徒は東南アジアでの外国人取引や、少数派ではありますが、個人的に中東へ留学した東南アジアの人々の間で増えていきました。この転換期のはじめの頃、イエメン、スワヒリ海岸、マラバール海岸、ベンガル湾の航路も影響力がありました。それと同時に、中国と
インドのイスラム教徒の繋がりも増えていきました。中国西部から来たイスラム教徒の貿易商は中国海岸の海沿いの街に定住し、中国人イスラム教徒はベトナム中部やボルネオ、フィリピン南部、ジャワの海岸のコミュニティーで重要な役割を果たしました。インドの様々な地域(ベンガル、グジャラート州、マラバーなど)から東南アジアへ入ったイスラム教の貿易商は多く、イスラム教の考えを広めるために自動車を提供しました。
数多くの起源の結果、東南アジアにたどり着いたイスラム教はとても多岐に渡ります。一般的なパターンは、支配者やボスによってイスラム教が広まった例です。時には貿易商を惹きつけたため、またはエジプトのマムルーク、トルコのオットマン、インドのムガルなど、もしくはイスラム教の教えの魅力によるものです。イスラムの神秘主義(スーフィズム)は、知識者の瞑想や催眠状態などの技術を使ってアッラーと直接コンタクトを取ることを目標にしており、とても需要がありました。

最初のイスラム教コミュニティについての確実な記載は旅行者として有名なマルコ・ポーロが1292年にスマトラ島北部に立ち寄った時のものです。イスラム暦の碑文や墓石は別の貿易ルート上の海岸にあります。主要な発展はマレー半島の西海岸のメラカの支配者の決定であり、1430年ごろにイスラム教を適合させています。メラカは主要な貿易拠点で、マレー半島とスマ
トラ島東部で話されていたマレー語は、マレー・インドネシア諸島の貿易港で共通語として使われていました。マレー語はそこまで難しい言語ではなく、貿易に関わる多くの人がすでに理解していました。したがってイスラム教の知識者はそのコンセプトを口頭でも書面でも伝えることができる共通語を手にしていたのです。改定されたアラビア文字はマレー文字に取って代わったのです。精神的な信条、社会、政治において、アラビア語はマレー語に取り込まれていったのです。

時を超えた変化
イスラム教の成功は、「ローカリゼーション」という名のプロセスによるもので、イスラム教の教えはしばしば態度と慣習の衝突を避けてきました。地域の英雄はイスラム教の聖人となり、彼らの墓は崇拝される場所となりました。神秘主義のイスラム教の見地は、ジャワ島で目立つイスラム教前の信条と似ています。闘鶏やギャンブルといった文化は続いていて、多神教を認めないイスラム教にも関わらず、キリストの贖罪は広く知られています。女性は顔を隠すことなく、多妻制も制限されています。イスラム教をベースとした法律は、一般に地域の慣習に合わせて作られます。
イスラム教が紹介した変化は、人々の生活には明白でした。豚肉はイスラム教徒にとって禁忌ですが、インドネシア東部やフィリピン西部では長い間儀式に用いる食材であったことから、重要な展開となりました。イスラム教徒はよくその服装で見分けられ、女性は胸を覆うような服装をしています。男性の割礼は重要な通過儀礼となりました。都会にいるイスラム教徒は教育の機会を手にし、コーランを基にした学校は宗教の象徴として注目されています。
ワハービ派と呼ばれるグループがメッカを占拠した19世紀初頭に改革的傾向は強さを得ました。ワハービ派は、イスラム法をより色濃く反映させることが目的でした。彼らの主張は東南アジアでは規制されていたにも関わらず、ワハービ派に惹きつけられた人々もいました。イスラム教義を遵守することで、ヨーロッパの勢力が成長することを防げるのではないかという感情があったのです。特にインドネシアにおいて、イスラム教のリーダーは反植民地運動に力を入れていました。しかし、エジプトで発展した現代主義的なイスラム教の考えは、東南アジアにも影響を与え、西洋の挑戦に対抗するためにイスラム教を改善させるべきだと考える人が増えました。このような気持ちを持ったイスラム教徒は田舎のコミュニティーや昔からのイスラム教の慣習に固執する「伝統主義者」にイライラしていました。ヨーロッパ人はついにタイを除くすべての東南アジアを植民地化しました。マレーシア、ビルマ、シンガポール、ボルネオ島西部はイギリス領、インドネシア諸島はオランダ領、ラオス、カンボジア、ベトナムはフランスの植民地となりました。東ティモールはポルトガル領、そしてスペインがフィリピンを植民地化し、のちにアメリカ領となりました。
第二次世界大戦後、これらの国が独立すると、政治的活動をしているイスラム教徒に対して、イスラム教と国との関係性についてどうするべきかという疑問があがりました。イスラム教が少数派であるタイやフィリピンでは、この関係性は緊張を引き起こします。マレーシアではイスラム教徒は人口の55%で、非イスラム教徒である中国人との調整が入ることは間違いありま
せん。インドネシアでは、イスラム教徒は信仰をどう守るかは議論が続いており、イスラム教が政府で重大な役割をしているのです。

東南アジアについて紹介します。

東南アジアは11の国からなっており、東インドから中国までを指します。そして、「本土」と「島」に分けられます。本土(ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム)はアジア大陸の延長上にあります。本土全域でイスラム教徒を見ることができますが、多くはタイ南部とビルマ西部(アラカン)にいます。ベトナム中部とカンボジアのチャム族もイスラム教徒です。
島や東南アジアの沿岸にはマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、そして新しい国東ティモール(以前はインドネシアの一部)があります。マレーシアとブルネイの国教はイスラム教です。インドネシアの人口234,000,000人の85%を超える人々がイスラム教徒であり、この数字は世界中の国を見ても大きいにも関わらず、インドネシアの国教はイスラム教ではありません。シンガポールとフィリピンの南部では、イスラム教徒は少数派です。

地理、環境、文化
ほとんどの東南アジアの国々は熱帯に属しているので、地域を通して気候、植物や動物には類似点があります。気温は暖かいですが、一部の高地は涼しいです。多くの海とジャングルが創り出す世界は地域特有のもので、近代では多くの国際貿易業者を惹きつけてきました。例えば、インドネシア東部のいくつかの小さな島は、かつて世界で唯一のクローブ、ナツメグ、メースの生産地でした。地域全体がモンスーンの影響を受けます。これは北西から風が吹き、南東へ吹き返すようになっています。この風によって、地域外の貿易業者がこの地域へ来ては去っていくというインターバルが出来上がったのです。この頼もしい風のパターンのおかげで、東南アジアはインドと中国の貿易の中間地点となりました。
物理的環境は本土と島で違いがあります。本土の地理の1番の特徴は、中国から流れ、インドの北西部を分断する長い川が流れていることです。2番目に、低地が樹木で覆われた丘や山で分断されていることです。この沃野は米を育てるのに適しており、タイ人、ビルマ人、ベトナム人が国を発展させる上で重要な産業となりました。高地は部族によって占拠されていて、独特な服、宝石、髪型でアイデンティティーを表現しています。本土の3番目の特徴は長い海岸線です。強い農地があったにも関わらず、この地域ではインドや中国に向けた海の貿易産業も発展してきました。
東南アジアの島は大きいもの(ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島、ルソン島など)から小さいもの(インドネシアには17,000の島があると言われてます。)まで様々です。これらの島の内部がジャングルや高地であるため、旅をするのは簡単ではありません。東南アジアの人々は違う地域へ移動するのにボートが便利であると気づき、土地は分かれているものの海で繋がっ
ているとしばしば言われます。海岸で繋がっている地域や近い島は、似たような言語を使い、宗教も文化も同じことが多いです。例えば、マレーシアとインドネシアのように現在の国境は植民地支配によって作られていて、理論的な文化の違いによるものではないのです。
島の2つ目の特徴は、海自体にあります。いくつかの深い海とは違い、浅い海が多いです。それは海が暖かく、そこまで塩辛くないということを示しています。この環境は魚、サンゴ、のりなどの製品には理想的です。いくつかの地域では荒い海もありますが、フィリピンを除く地域全体としてはハリケーンや台風の影響を受けることはありません。しかし、活火山が多く、島は地震の影響を受けやすくなっています。

ライフスタイル、暮らし、生計
東南アジアの特徴は文化の多様性にあります。現在世界では6,000の言語が話されているといいますが、そのうち1,000は東南アジアで発見されていると考えられています。考古学的には、東南アジアには100万年前から人々の暮らしがあったと言われていますが、地域への移住も長い歴史があるようです。昔中国南部の部族が長い川を伝って本土内部に移住してきました。言語学上では、本土は3つの主要なグループに分けられ、南アジア語族(カンボジア人やベトナム人)、タイ語族(タイ人やラオス人)、チベットビルマ語族(ビルマ人や高地の言語を含む)となっています。これらの語族に分類される言語は、インド北東部、中国南西部でも見られます。
約4000年前、南島語族に分類される言語を話していた人々(中国南部や台湾を起源とする)が東南アジアの島へ移住してきました。フィリピンとマレー・インドネシアの群島では、この移住はオーストラリアやニューギニアに関係すると見られる先住民に吸収されていきました。現在東南アジアの島々で話されている言語の多くは南島語族に属しています。
東南アジアの注目すべき特徴は人々が様々な方法で地域の環境に順応してきた点です。現代以前の時代、多くの遊牧民が小さなボートで生活しており、彼らはオラン・ラウトまたは海の人々として知られていました。ジャングルの奥深くは、多くの小さなさすらいグループのホームとなっていて、内地の部族もいました。インドネシア東部にある、とある島では長い乾季があり、ヤシの実が主食となっていました。別の地域では、サゴが主食でした。ジャワ島や東南アジアの本土に定住していたコミュニティーでは、稲作が盛んでした。マングローブのため、海岸は農業には適していなかったので、漁業と貿易が主な職業となりました。人口の少なさ、世界の宗教の導入が遅れたこと、都会化の欠如などの多くの事実から、東南アジアの女性は、男性と平等に扱われることが多いです。
2000年前に2つの地域からきた文化的変化が東南アジアに影響を与え始めました。揚子江の南の中国人の拡大により、ベトナムの植民地化が進みました。中国の支配は1427年に終わりますが、儒教的性格はベトナムが独立するまで影響を与え続けました。仏教と道教も中国からベトナムへ持ち込まれました。その他の東南アジア本土とマレー・インドネシア諸島の西部では、ベンガル湾での貿易が盛んになり、それはインドの影響をより受けやすくなったことを意味しました。これらの影響は、ベトナム北部やカンボジア、タイ、ビルマ、ジャワ島、バリで定住していた人々が水稲を始めた時に最も顕著となりました。ヒンズー教や仏教を適合させたこれらの地域の支配者は、地域独自の文化と輸入した文化を融合させ、地域社会になじませていき
ました。
物理的環境の違いは東南アジアの政治機構にも影響を与えました。人々が遊牧民や半遊牧的生活をしていた頃、安定した官僚制を伴う政治機構や税制度を作り上げることは困難でした。このようなシステムは、本土やジャワ島で稲作に携わり、定住している人が多い地域でのみ発展してきました。しかし、権力を拡大するのは高地や島々では難しいということを有力者でもわかっていたのです。