東南アジアは11の国からなっており、東インドから中国までを指します。そして、「本土」と「島」に分けられます。本土(ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム)はアジア大陸の延長上にあります。本土全域でイスラム教徒を見ることができますが、多くはタイ南部とビルマ西部(アラカン)にいます。ベトナム中部とカンボジアのチャム族もイスラム教徒です。
島や東南アジアの沿岸にはマレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、そして新しい国東ティモール(以前はインドネシアの一部)があります。マレーシアとブルネイの国教はイスラム教です。インドネシアの人口234,000,000人の85%を超える人々がイスラム教徒であり、この数字は世界中の国を見ても大きいにも関わらず、インドネシアの国教はイスラム教ではありません。シンガポールとフィリピンの南部では、イスラム教徒は少数派です。
地理、環境、文化
ほとんどの東南アジアの国々は熱帯に属しているので、地域を通して気候、植物や動物には類似点があります。気温は暖かいですが、一部の高地は涼しいです。多くの海とジャングルが創り出す世界は地域特有のもので、近代では多くの国際貿易業者を惹きつけてきました。例えば、インドネシア東部のいくつかの小さな島は、かつて世界で唯一のクローブ、ナツメグ、メースの生産地でした。地域全体がモンスーンの影響を受けます。これは北西から風が吹き、南東へ吹き返すようになっています。この風によって、地域外の貿易業者がこの地域へ来ては去っていくというインターバルが出来上がったのです。この頼もしい風のパターンのおかげで、東南アジアはインドと中国の貿易の中間地点となりました。
物理的環境は本土と島で違いがあります。本土の地理の1番の特徴は、中国から流れ、インドの北西部を分断する長い川が流れていることです。2番目に、低地が樹木で覆われた丘や山で分断されていることです。この沃野は米を育てるのに適しており、タイ人、ビルマ人、ベトナム人が国を発展させる上で重要な産業となりました。高地は部族によって占拠されていて、独特な服、宝石、髪型でアイデンティティーを表現しています。本土の3番目の特徴は長い海岸線です。強い農地があったにも関わらず、この地域ではインドや中国に向けた海の貿易産業も発展してきました。
東南アジアの島は大きいもの(ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島、ルソン島など)から小さいもの(インドネシアには17,000の島があると言われてます。)まで様々です。これらの島の内部がジャングルや高地であるため、旅をするのは簡単ではありません。東南アジアの人々は違う地域へ移動するのにボートが便利であると気づき、土地は分かれているものの海で繋がっ
ているとしばしば言われます。海岸で繋がっている地域や近い島は、似たような言語を使い、宗教も文化も同じことが多いです。例えば、マレーシアとインドネシアのように現在の国境は植民地支配によって作られていて、理論的な文化の違いによるものではないのです。
島の2つ目の特徴は、海自体にあります。いくつかの深い海とは違い、浅い海が多いです。それは海が暖かく、そこまで塩辛くないということを示しています。この環境は魚、サンゴ、のりなどの製品には理想的です。いくつかの地域では荒い海もありますが、フィリピンを除く地域全体としてはハリケーンや台風の影響を受けることはありません。しかし、活火山が多く、島は地震の影響を受けやすくなっています。
ライフスタイル、暮らし、生計
東南アジアの特徴は文化の多様性にあります。現在世界では6,000の言語が話されているといいますが、そのうち1,000は東南アジアで発見されていると考えられています。考古学的には、東南アジアには100万年前から人々の暮らしがあったと言われていますが、地域への移住も長い歴史があるようです。昔中国南部の部族が長い川を伝って本土内部に移住してきました。言語学上では、本土は3つの主要なグループに分けられ、南アジア語族(カンボジア人やベトナム人)、タイ語族(タイ人やラオス人)、チベットビルマ語族(ビルマ人や高地の言語を含む)となっています。これらの語族に分類される言語は、インド北東部、中国南西部でも見られます。
約4000年前、南島語族に分類される言語を話していた人々(中国南部や台湾を起源とする)が東南アジアの島へ移住してきました。フィリピンとマレー・インドネシアの群島では、この移住はオーストラリアやニューギニアに関係すると見られる先住民に吸収されていきました。現在東南アジアの島々で話されている言語の多くは南島語族に属しています。
東南アジアの注目すべき特徴は人々が様々な方法で地域の環境に順応してきた点です。現代以前の時代、多くの遊牧民が小さなボートで生活しており、彼らはオラン・ラウトまたは海の人々として知られていました。ジャングルの奥深くは、多くの小さなさすらいグループのホームとなっていて、内地の部族もいました。インドネシア東部にある、とある島では長い乾季があり、ヤシの実が主食となっていました。別の地域では、サゴが主食でした。ジャワ島や東南アジアの本土に定住していたコミュニティーでは、稲作が盛んでした。マングローブのため、海岸は農業には適していなかったので、漁業と貿易が主な職業となりました。人口の少なさ、世界の宗教の導入が遅れたこと、都会化の欠如などの多くの事実から、東南アジアの女性は、男性と平等に扱われることが多いです。
2000年前に2つの地域からきた文化的変化が東南アジアに影響を与え始めました。揚子江の南の中国人の拡大により、ベトナムの植民地化が進みました。中国の支配は1427年に終わりますが、儒教的性格はベトナムが独立するまで影響を与え続けました。仏教と道教も中国からベトナムへ持ち込まれました。その他の東南アジア本土とマレー・インドネシア諸島の西部では、ベンガル湾での貿易が盛んになり、それはインドの影響をより受けやすくなったことを意味しました。これらの影響は、ベトナム北部やカンボジア、タイ、ビルマ、ジャワ島、バリで定住していた人々が水稲を始めた時に最も顕著となりました。ヒンズー教や仏教を適合させたこれらの地域の支配者は、地域独自の文化と輸入した文化を融合させ、地域社会になじませていき
ました。
物理的環境の違いは東南アジアの政治機構にも影響を与えました。人々が遊牧民や半遊牧的生活をしていた頃、安定した官僚制を伴う政治機構や税制度を作り上げることは困難でした。このようなシステムは、本土やジャワ島で稲作に携わり、定住している人が多い地域でのみ発展してきました。しかし、権力を拡大するのは高地や島々では難しいということを有力者でもわかっていたのです。